2011年3月21日月曜日

「自然と人間の大調和を観ずる祈り」

生長の家総裁谷口雅宣先生はご自身のブログ「小閑雑感」(平成23年3月17日)にて、今回の大震災についての祈りの言葉を発表されました。複製配布可とのことなので下に転載いたします。


神の創造(つく)り給いし世界の実相は、自然と人間とが一体のものとして常に調和しているのである。自然は人間を支え、人間に表現手段を与え、人間に喜びを与えている。それに感謝し、人間は自然を愛で、自然を養い、豊かならしめているのである。両者のあいだに断絶はなく、両者のあいだに争いはなく、両者のあいだには区別さえもないのである。

人間に表現手段を与えている肉体は、その周囲を構成する自然界と物質的成分は同一である。だから、人間は自然界から酸素を得て動力として、水を飲んで潤滑油とし、食物を摂取して肉体を維持・成長させることができるのである。これらの物質の流れ、分子や原子の循環の奥に、神の知恵と愛と生命を観ずるものは幸いである。物質は結果であり、神が原因である。すべての存在が渾然と調和し、支え合っているその実相を、神は「はなはだ良し」と宣言せられたのである。

その実相を見ず、「個」が実在であり、世界の中心であると見るのは迷妄である。「個人の損得」を中心にすえるとき、人間は自然との大調和を見失うのである。自然界に不足を見出し、自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして、自然界の機構を自己目的に改変し、利用することは、愚かなことである。自然の一部を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。それによって、人間は自然との一体感を失い、自然治癒力を含めた自然の恩恵を自ら減衰させ、生き甲斐さえも失うのである。

人間が自然を敵視すれば、その迷い心の反映として、自然の側から“敵”として扱われるような事態が現れてくるのである。人間が山を削り、森を切り倒し、川を堰き止め、湖や海を埋め立てて、人間だけの繁栄を画策しても、それは神の御心ではない。それは神が「はなはだ良い」と宣言された実相世界とは似ても似つかない“失敗作品”である。実相でないものは、必ず破壊と滅亡を迎える時が来る。それは偽象の崩壊であり、業の自壊である。

しかし、これを“神の怒り”ととらえてはならない。広大な農地を破壊しながら猛スピードで突き進む津波を見て、神が怒りに燃えて破壊を進めていると考えてはならない。神は山を崩して海を埋め立て給わず。海岸に農地を作り給わず。工場を造り給わず。空港も、原子力発電所も造り給わず。それらすべては、人間が自己利益を考えて、動植物の絶滅を顧みずに行った行為である。日本列島やニュージーランド周辺で地震が起こるのは、太古から繰り返されている地殻変動の一部であり、決して異常事態ではない。それが異常事態に見えるのは、人間の視野が狭く、考える時間軸が短く、自己中心的だからである。

多くの生物を絶滅させ、自然の与え合い、支え合いの仕組みを破壊しておいて、人間だけが永遠に繁栄することはありえない。生物種は互いに助け合い、補い合い、与え合っていて初めて繁栄するのが、大調和の世界の構図である。それを認めず、他の生物種を“道具”と見、あるいは“敵”と見、さらには“邪魔者”と見てきた人間が、本来安定的な世界を不安定に改変しているのである。その“失敗作品”から学ぶことが必要である。
大地震は“神の怒り”にあらず、“観世音菩薩の教え”である。我々がいかに自然の与え合いの構図から恩恵を得てきたかが、それを失うことで実感させられる。我々がいかに人工の構築物を、田畑を、港を、道路を、送電線を、インターネットを築き上げても、自然界の精妙かつ膨大な仕組みとエネルギーを軽視し、蹂躙する愚を犯せば、文明生活は一瞬にして崩壊することを教えている。我々の本性である観世音菩薩は、「人間よもっと謙虚であれ」「自然の一部であることを自覚せよ」「自然と一体の自己を回復せよ」と教えているのである。

現象において不幸にして災害の犠牲となった人々を、“神の怒り”に触れたなどと考えてはならない。神は完全なる実相極楽浄土の創造者であるから、「怒る」必要はどこにもない。人類が深い迷妄から覚醒できず、自然界を破壊し続けることで地球温暖化や気候変動を止められないとき、何かが契機となって人々を眠りから醒ます必要がある。麻薬の陶酔に頼って作品をつくり続ける芸術家には、自分の作品の欠陥が自覚されない。そんなとき、「この作品は間違っている!」と強く訴える人が現れるのである。そんな“内なる神の声”を1人や2人が叫び続けてもなお、多くの人々に伝わらないとき、それを集団による合唱で訴える役割が必要になる--「この作品は描き直し、造り直す必要がある!」と。現象の不幸を表した人々は、そんな尊い役割を果たしている。これらの人々こそ、我々の良心であり、“神の子”の本性の代弁者であり、観世音菩薩である。
我らは今、この尊き観世音菩薩の教えを謙虚に聴き、心から感謝申し上げるとともに、神の創造(つく)り給いし世界の実相の表現に向かって、新たな決意をもって前進するのである。神さま、ありがとうございます。